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by yuanfei
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71-39になった日

 さて、今日は昼と夜に繋ぎ、Base71、Job39になる事が出来ました(`・ω・´*)
 まだ農具1ならそれなりの経験値は入るので、けっこうウマー
 このまま80くらいまで楽に行けるといいのデスガ……必要経験地表とか見てると泣ける(血

 で、書く事これだけ(汗
 日に日に内容が薄っぺらになってきてる気がするのですが、ドウデショウ(ガタブル

 とりあえず空いたところに、歴史の事実・新事実(新説)でも載せときますね!
 覚えとくと便利デスヨ!


 桶狭間で討ち取られた今川義元。彼は愚将の代表が如く言われるが、実際は知恵高き名将であった。
 生前は東海一の弓取りと称されるほどの人物であった。実際、武田や後北条を相手に引けを取る事はなかったと言われる。
 桶狭間の大敗で締めくくられた一連の戦いは、織田の勝利など微塵も有り得ないほどの優勢であり、義元が油断するのも仕方がない事であったろう。
 彼が愚将と言われてしまうのは、相対した織田信長が彼以上の名将であったためであり、実際の今川義元は全国でもトップクラスの名将であった。

 今川は上洛をするために織田を攻めたわけではない。
 上洛にはさまざまな準備が必要となるが、当時の記録には今川が上洛の準備を整えていたというものは残っておらず、領土の境界問題に決着をつける軍であったと考えられる。

 織田信長は桶狭間において、迂回進撃などしていない。
 桶狭間の今川義元を討ち取るにあたり、信長が迂回進撃し、側面から攻撃をかけたように言われるが、これは後世の軍記物語において、物語を面白くするために脚色されたものだと考えられており、実際は正面から突撃したと考えられる。
 と言っても、義元本隊に対して正面攻撃を行ったものであり、それ以前の前衛部隊をも正面突破したわけではない。

 信長は本能寺において、自ら刀や弓を持って反撃に出てはいない。
 従来、本能寺の最後と言えば、信長自身が寝巻きのまま刀や弓を取り、攻め寄せる明智勢と交戦し、最後には敦盛を舞い、炎の中に消えていくという風に描かれるこの場面。
 しかし、信長の実際の死は劇的なものではなく、風呂上りに足軽の槍で背中をぶっ刺されるというものだったらしい。


 って、ここ数日で読んだ歴史の本何冊かにあった(ぁ
 まあ、信長の死に様に関してはその本どもには書いてなかったけど、実際はこうらしいデスヨ(・ω・;)
 見も蓋もナイヨネ!
 けど、人間味があって、炎の中に消えるよりは好きー
 どっちが真実かシラナイケドネ!

 以上、新知識の伝播デシタ(ぉ
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by yuanfei | 2005-09-13 01:46